夢想兵衛胡蝶物語

本八幡山本書店

「アラン著作集1 思索と行動のために」中村雄二郎訳\480
「常識的文學論」大岡昇平\200
「武玉川選釈」森銑三\540
「江戸人とユートピア日野龍夫\200
「胡蝶物語」曲亭馬琴\400
「彼もまた神の愛でし子か 洲之内徹の生涯」大原富枝\350
「竜の星座 内藤湖南のアジア的生涯」青江舜二郎\400
「言葉と無意識」丸山圭三郎\100

見えざるもの

同時進行で読んでいる本

フリーメイソン錬金術吉村正和
柳宗悦ウィリアム・ブレイク』佐藤光
『岩波講座 日本の思想8 聖なるものへ』
『世界はあんぜ「ある」のか』ジム・ホルト 寺町朋子訳

フリーメイソン』にはブレイクについて一章がさかれていたりしてこれは偶然はあったが、いずれにしても眼に見える現象世界の背後に見えざる世界を想定するという態度、洋の東西を問わず古代・中世においてはむしろそういった態度こそが当たり前であった。

『日本の思想』所収「聖なるものへ」佐藤弘夫論文が示すのは、日本古代における信仰の原初形態を「アニミズム」あるいは「神の依代」といった言葉で捉えることへの違和感。
「人類における始原のカミは抽象化された不可視のアニマとしてではなく、個別具体低な事象に即して把握されていたと考えている」
古事記伝』に「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物」=無条件に畏怖の念を起こさせる対象そのものがカミと捉えられた

「そうした原初的なカミの観念は、やがてつぎのレベルに移行する。具体的なモノや個々の現象をそのままカミとまなす段階から、土偶にみられるようなカミのイメージの集約化を経て、その背後に『タマ』などとよばれた、霊異を引き起こす抽象的・根源的存在としてのカミを想定する段階への転換である」

柳宗悦とー』より
ブレイクの『天国と地獄の結婚』

神は存在するもの、あるいは人の中でのみ活動し存在する。

神を敬うことは、他人の中にある才能を、その才能に応じて互いに尊ぶことであり、最も偉大な人を最もよく愛することである。偉大な人を妬んだり中傷したりすることは神を憎むことである、なぜならそれ以外に神はないからである。

ライオンと牛に同じ一つの掟を課すことは抑圧である。

生きとし生けるものはすべて神聖である。

『世界はなぜ「ある」のか』でジム・ホルトが述べているのも同じこと

スピノザの汎神論=草木国土悉皆成仏

「おそらく、存在の謎について考えうるあらゆる解答のなかで最も喜ばしいのは、およそありそうにないことながら、世界が「自己原因カウサ・スイ」である、つまり世界がみずからの存在原因であるという可能性が見出されたことだおろう。この可能性は、スピノザによって初めて提起された。スピノザは大胆にも(いくぶん漠然としていたにもせよ)、あらゆる現実はひとつの限りない実体からなると推論した。個々のものは、物理的なものも精神的なものも、この実体に一時的な変更あg加えられたものにすぎず、海面の波のようなものなのだ。スピノザはこの限りない実体を「神即自然デウス・シウエ・ナトウラ」と呼んだ。」

アインシュタイン1921年にニューヨーク在住のラビから、神を信じるかどうかと尋ねられた。
「私は、存在するものの整然とした調和のなかにみずからを現すスピノザの神を信じます。人間の運命や行動に関心をもつ神は信じません」

元始に神天地を創造たまへり

夜勤明けの足は棒のようになり気を失いそうな眠気に苛まれながらもなぜ探書に向かうか。さすがに池袋ブからまた池袋駅にひきかえす元気はなく大塚で途中下車するには疲れすぎている。グーグルマップにたずねれば、西日暮里にブが存在するという答え。あれこないだバスでとおりかかったが気がつかなんだ。駅から10分なら早足で5分といったところかとあなどれば、なんのしっかりあるかされた。

狭い店なので品揃えには不満などいう口コミがあったが見る目がない輩にはそうであっても、どうしてあなどれない棚であったな。小規模店であってもしぜん地域色がでてくるものか、こなたには日本映画のDVDがやたら充実していた。新東宝憲兵ものなど、ほしかったが値段もお安くないのでやめた。

けっきょく以下の2点のみ購入。

「シネマ·ハント」柳下毅一郎 510円
「文語訳旧約聖書Ⅰ 律法」 610円

ここから割引券をつかい10%オフ。ポイントもつかって1000円を切ったのはお得であった。

しかしさいきんブ巡りがまた趣味になってないか。おそろしい。自制々々。

新年の幸福論

ブのウルトラセールを待って大塚店にわざわざ出かける。交通費を考えにいれるとれば書籍20%オフではトントンなのではないかというのはさておき。

目をつけていた学術文庫の「トマス・アクィナス」は見当たらず(この本を読みたいという特殊な趣味の人間がじぶん以外にもいるのだというあたりまえに驚く)、しかしもう一冊の学術文庫、中村元の「龍樹」は\608で首尾よく手に入れることができた。

ほかに

トマスによる福音書」荒井献\408
 
ほかにめぼしいものもなく消化不良感が残るので、新大塚から丸ノ内線御茶ノ水まで、そこから秋葉原まで歩く。神田明神は混雑がいやなので詣でない。

電気街は雑多な人種がいりみだれ大変なこみよう。
こちらもかたい本にあまり収穫はなく(そういえば皆殺し映画通信天下御免\510買うの忘れた)、CDを物色。

それでも現代新書の「南方熊楠を知る事典」極美品\768を入手した。93年当時の新刊案内がそのまま挟まっていたので、おそらくほとんど読まれずしまいこまれていた一冊なのではあるまいか。これが今春いちばんの拾い物かな。

ほかに

「読む哲学事典」田島正樹\368
「幸福論」アラン/串田孫一中村雄二郎訳\208
「EASY LIVING」PAUL DESMOND\500
「GUITAR MONSTERS」CHET ATKINS & LES PAUL\500
「MUSIC IS MY SANCTUARY」GARY BARTZ\500
「SUPER DUB」LITTLE TEMPO\500
「THE ROUGH GUIDE TO CUBAN SON」V.A.\500
「CLASSIC SALSOUL MASTERCUTS VOLUME2」\500

宗教学の名著30

島薗進ちくま新書2008)


空海三教指帰
イブン=ハルドゥーン「歴史序説」
富永仲基「翁の文」
ヒューム「宗教の自然史」



ラブジョイ「存在の大いなる連鎖」
カント「たんなる理性の限界内の宗教」
シュライエルマッハー「宗教論」
ニーチェ道徳の系譜



フレイザー金枝篇
ウェーバー「プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
フロイト「トーテムとタブー」
デュルケム「宗教生活の原初形態」



ジェイムズ「宗教的経験の諸相」
姉崎正治法華経の行者 日蓮
ブーバー「汝と我」
フィンガレット「論語は問いかける」



柳田国男「桃太郎の誕生」
ホイジンガ「ホモ·ルーデンス」
エリアーデ「宗教学概論」
五来重高野聖



ニーバー「アメリカ型キリスト教の社会的起原」
レーナルト「ド·カモ」
エリクソン「幼児期と社会」
ショーレムユダヤ神秘主義
井筒俊彦コーランを読む」



ヤスパース「哲学入門」
バタイユ「呪われた部分」
ジラール「暴力と聖なるもの」
湯浅泰雄「身体論」
バフチンドストエフスキー詩学の諸問題」

夢のリアリズム

高橋英夫『神を見る 神話論集1』

吾々は吾々の生涯で他の時代の千年以上を経験した。喜ぶべき事か悲しむべき事かは知らないが、興味ある事だ。せめてさう思はう。
全く風のない静な夜、二時半、皆寝静まつて、自分だけが覚めてゐる。ねそびれて床に寝ながら覚めてゐる。三月で、虫の音も蛙の声もなく、近い森で夜鳥も啼かぬ季節だ。全く静かだ。そしてその全く静かなのが非常に騒々しいのだ。自分は騒々しさで眠る事が出来ない。水の流れるやうな音が聴える。血の流れる音を聴いてゐるのかとも思つたが、それなら多少とも心臓の鼓動らしい音がありさうなものだ。そして耳をすますも、すまされないもなく、連続した非常に騒々しい音がしてゐる。それが遠巻きに八方から聴えて来る。此警官は病的なものではなく、今晩にかぎつた事でもない。静かな真夜中はいつもこれに悩まされる、読んでゐても、書いてゐても、絶える事なく聴こえて来る。これは誰にもある事と自分では思ふが、如何。
志賀直哉『手帖から』昭和8)

「見る」をも含めて感覚の訓練があるレヴェルまで高まった場合、心身が安定しながら充実の状態に達すると、いつしか感覚の増幅、溢漲がおこることがあるが、その精妙な一例を彼はこの短文の中で報告しているのである。

リアリティの拡張=高度なリアリティ

強度にたかめられたリアリズムの眼がもたらした視覚のデカダンス

あまりにも明晰な視力は夢を生む
ニーチェ風の逆説と心境小説的リアリズムとが、作者の無意識のうちに統一されている
→『焚火』

エピファニー
畏怖


*これ、仏教とくに禅で瞑想している感覚と同じ状態なのではないか。志賀のリアリズムがいわゆる自然主義をこえた、ハイパーリアリズムの作家であったことを知ったのは有益であった。

そして以下も同書から、小林秀雄志賀直哉

推進機の回転数が異常に増加してくれば、おそらく推進機は推進機でも何んでもなくなるが如く、理智の速度が異常に速やかになれば、理智は肉体とは何んの交渉もない観念学と変貌するが如く、神経も亦その鋭敏の余り人間行動から遊離して、一種トロピズムの如く、彼独特の運動を起すものである。神経がその独立の運動によつて彼の世界を建築しようとするに際して、その材料として、その骨格として最も自由な利用を許されるものは、肉体の命令から最も自由な観念といふものである。ジェラル・ド・ネルヴァルが、その恐ろしく鋭敏な神経の上に、「夢と生」なる神経的架空の世界を築き得た所以は、彼が又恐ろしく神速に観念的な頭を持つてゐたが為である。彼の遊離した神経は、利用すべき観念の無限な諸映像に不足を感じなかつた。

私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見てゐる眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかといふ事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はさういう眼なのである。

見ようとしないで見てゐる許りでなく、見ようとすれば無駄なものを見て了ふといふ事を心得てゐる

(『世の若く新しい人々へ』昭和4)

ここにもネルヴァル!

以下、芭蕉『三冊子』の引用

物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし

師の曰、乾坤の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動るものは変也。時としてとめざればとどまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散乱るも、その中にして見とめ聞とめざればをさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。