子規の輪郭

松山に旅行したので、子規への関心がよみがえっている。日記にしろ随筆にしろ、それほど読みこんだわけではないし、肝心の句や歌となるとほとんど。それでも年来いつもどこかで気にかけているのは、居士の人間としての魅力によるものか。

じぶんに似ているようで、勝手に親近感を抱くといえばむしろ啄木なのだが。子規の徹底した陽性の精神と、強靭な意志に、憧れるものなのだろうか。

『鳴雪自叙伝』をいぜんにおもしろく読んだが、ここでもやはり外堀から埋める式の近よりかたをしてしまうのが我ながらおかしい。

しかしつきあいのあった人だちに、生前の思い出を書かせずにはいられないのが子規という人間であり、そうやって複数の証言をえて真ん中に浮かびあがってくる肖像こそが案外その人そのものなのかもしれない。

同じ町内で生まれ(松山で子規の生家跡を訪ねなかったのが悔やまれる!)、生涯兄事した碧梧桐にとっての子規とは。岩波文庫の『子規を語る』はまだ手元になく、図書館でも備えていなかった。自由律俳句のさきがけとしての碧梧桐にも興味があるので蝸牛俳句文庫の句集を借りてくる。

錦糸町で108円棚からなんとなく関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』を手にとったのも同じ関心からだったろう。
読み始めたばかりだが、子規のみならず司馬遼太郎の書きぶりについて「写生」を考えるくだりに成程とおもう。

杉並区立中央図書館で江藤淳が写生句について書いたものを読み刮目した記憶が忘れられず、それいらい細ぼそと考えてきている。

内田百輭いうところの透明な文章しかり、いわゆる文体論の範疇なのだろうが、読むほどに考えるほどに問題点はさらにひろがり、もはや手に余る。

これにかんして、さいきんまったく別方面から新しいヒントをえたので、それはまた論をあらためて。

無教養であるよりも、むしろ乞食である方がよい

『田中美知太郎全集 6』

ヒューマニズム再説」(1948年)

しかしいかなる対立と闘争においても、盲目的な憎悪に支配されて、相手の人間性を見失うことは、つねに戒心されなければならぬ。最後の場合には、いつでも人間性が回復され、たがいに話し合い、了解し合う途がひらかれていなければならぬ。そのためには、私たちはいわゆる現実にとらえられることのない自由な心をもたねばならない。私たちの思考は、現在に束縛されずに、現在の情況とは逆の場合も考えることができなければならない。これが抽象能力である。
一般に同情心の欠乏というものは、人の身の上になって考えることのできないことから生ずるものと思われるが、それには自由に立場をかえて考える、一種の抽象能力を必要としたのであって、いかなる愛情も、知性によって開眼されていなければ、理解の範囲は狭く限られてしまって、他の人には冷淡残酷となる場合が多い。自分の子供や家族に対する盲目的な愛情が、他人に対する冷淡となる場合の多いことは、私たちが日常経験するところであると言ってよいであろう。
ヒューマニズムは、とらわれない心と抽象能力を前提とし、人々が抽象的とか、あいまいとか言って非難するような一般的な原理に従って、個々の場合に行動することを要求するものなのである。それは知力と共に勇気を必要とし、更に抽象的、一般的なものへの熱情と信仰を必要とするものなのである。

私たちは制服や旗印によって人を判断する代りに、人をそれ自身のねうちで判断しなければならない。しかし人々は、一般的に人間性を認めることができないために、また人間をそれ自身の価値で判断することもできない結果になっている。かくて味方はすべてよく、敵はすべて悪いというような判断のほかに、何の区別も知らないかのような言動となる。これはまた皇軍将士はすべて神人であるが、敵はすべて鬼畜であるという判断なのである。そしてこのような判断が、あらゆる残虐行為を生んだのである。

味方の弱点と悪徳についても、決して欺かれることのない目をもつと共に、敵の美徳と長所にも、盲目であってはなるまい。そのような美点と欠点が、まさに人間としての価値の差別なのである。

むかしアリスティッポスは、無教養であるよりも、むしろ乞食である方がよい。なぜなら乞食に欠けているのは金銭だけであるけれども、前者に欠けているのはアントローピスモス(人間性)だからだと言ったということが伝えられている。人間が人間としてもっているねうちは、このような人間性の有無上下によって区別されなければならぬ。
ヒューマニズムは、このような区別の立場であり、すべての善美なるもの、すぐれたものを熱心に求める心にほかならないのである。

ヒューマニズムの意味」(1947年)

テレンティウス「自虐家」Terentius,Heautontimorumenos 77
「私は人間だから、人間のすることは何だって、私には無縁だとは思われない」homo sum:humani nihil a me alienum puto

身も蓋もない茂吉

小池光『茂吉を読む 五十代五歌集』

ミユンヘンにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき
(これは五十代の歌ではないが)

くれなゐの林檎がひとつをりにふれて疊のうへにあるが清しも

あかつきの光やうやく見ゆるころすゑたる瓷(かめ)のなかに糞を垂る

以上二首、歌集『石泉』

THE GREAT CHAIN OF BEING

国分寺 七七舎

「辻征夫詩集成」
「存在の大いなる連鎖」アーサー・O・ラブジョイ
「二人がここにいる不思議」レイ・ブラッドベリ
デカルト入門」小林道夫
「反福祉論」金菱清/大澤史伸

キリストが呼んでいる あいつは捕まった

「THE CHERRY THING REMIXES」Neneh Cherry & The Thing
「STEAL AWAY」Charlie Haden & Hank Jones
「EVERYTHING'S GONNA BE ALRIGHT」Bob Marley & The Wailers
「CUADERNOS DE MEXICO」V.A.
「THE ROUGH GUIDE TO SOUTH AFRICAN GOSPEL」

南アフリカのゴスペル」がどうしても心にかかり、あらためて探しに出向いた。手にとって棚に戻したものの、のちにじわじわと浸蝕してくるようなモノというのが稀にある。

ぐうぜんなのだが、神を讃える音楽ばかりが集まることになった。