無教養であるよりも、むしろ乞食である方がよい

『田中美知太郎全集 6』

ヒューマニズム再説」(1948年)

しかしいかなる対立と闘争においても、盲目的な憎悪に支配されて、相手の人間性を見失うことは、つねに戒心されなければならぬ。最後の場合には、いつでも人間性が回復され、たがいに話し合い、了解し合う途がひらかれていなければならぬ。そのためには、私たちはいわゆる現実にとらえられることのない自由な心をもたねばならない。私たちの思考は、現在に束縛されずに、現在の情況とは逆の場合も考えることができなければならない。これが抽象能力である。
一般に同情心の欠乏というものは、人の身の上になって考えることのできないことから生ずるものと思われるが、それには自由に立場をかえて考える、一種の抽象能力を必要としたのであって、いかなる愛情も、知性によって開眼されていなければ、理解の範囲は狭く限られてしまって、他の人には冷淡残酷となる場合が多い。自分の子供や家族に対する盲目的な愛情が、他人に対する冷淡となる場合の多いことは、私たちが日常経験するところであると言ってよいであろう。
ヒューマニズムは、とらわれない心と抽象能力を前提とし、人々が抽象的とか、あいまいとか言って非難するような一般的な原理に従って、個々の場合に行動することを要求するものなのである。それは知力と共に勇気を必要とし、更に抽象的、一般的なものへの熱情と信仰を必要とするものなのである。

私たちは制服や旗印によって人を判断する代りに、人をそれ自身のねうちで判断しなければならない。しかし人々は、一般的に人間性を認めることができないために、また人間をそれ自身の価値で判断することもできない結果になっている。かくて味方はすべてよく、敵はすべて悪いというような判断のほかに、何の区別も知らないかのような言動となる。これはまた皇軍将士はすべて神人であるが、敵はすべて鬼畜であるという判断なのである。そしてこのような判断が、あらゆる残虐行為を生んだのである。

味方の弱点と悪徳についても、決して欺かれることのない目をもつと共に、敵の美徳と長所にも、盲目であってはなるまい。そのような美点と欠点が、まさに人間としての価値の差別なのである。

むかしアリスティッポスは、無教養であるよりも、むしろ乞食である方がよい。なぜなら乞食に欠けているのは金銭だけであるけれども、前者に欠けているのはアントローピスモス(人間性)だからだと言ったということが伝えられている。人間が人間としてもっているねうちは、このような人間性の有無上下によって区別されなければならぬ。
ヒューマニズムは、このような区別の立場であり、すべての善美なるもの、すぐれたものを熱心に求める心にほかならないのである。

ヒューマニズムの意味」(1947年)

テレンティウス「自虐家」Terentius,Heautontimorumenos 77
「私は人間だから、人間のすることは何だって、私には無縁だとは思われない」homo sum:humani nihil a me alienum puto