見えざるもの

同時進行で読んでいる本

フリーメイソン錬金術吉村正和
柳宗悦ウィリアム・ブレイク』佐藤光
『岩波講座 日本の思想8 聖なるものへ』
『世界はあんぜ「ある」のか』ジム・ホルト 寺町朋子訳

フリーメイソン』にはブレイクについて一章がさかれていたりしてこれは偶然はあったが、いずれにしても眼に見える現象世界の背後に見えざる世界を想定するという態度、洋の東西を問わず古代・中世においてはむしろそういった態度こそが当たり前であった。

『日本の思想』所収「聖なるものへ」佐藤弘夫論文が示すのは、日本古代における信仰の原初形態を「アニミズム」あるいは「神の依代」といった言葉で捉えることへの違和感。
「人類における始原のカミは抽象化された不可視のアニマとしてではなく、個別具体低な事象に即して把握されていたと考えている」
古事記伝』に「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物」=無条件に畏怖の念を起こさせる対象そのものがカミと捉えられた

「そうした原初的なカミの観念は、やがてつぎのレベルに移行する。具体的なモノや個々の現象をそのままカミとまなす段階から、土偶にみられるようなカミのイメージの集約化を経て、その背後に『タマ』などとよばれた、霊異を引き起こす抽象的・根源的存在としてのカミを想定する段階への転換である」

柳宗悦とー』より
ブレイクの『天国と地獄の結婚』

神は存在するもの、あるいは人の中でのみ活動し存在する。

神を敬うことは、他人の中にある才能を、その才能に応じて互いに尊ぶことであり、最も偉大な人を最もよく愛することである。偉大な人を妬んだり中傷したりすることは神を憎むことである、なぜならそれ以外に神はないからである。

ライオンと牛に同じ一つの掟を課すことは抑圧である。

生きとし生けるものはすべて神聖である。

『世界はなぜ「ある」のか』でジム・ホルトが述べているのも同じこと

スピノザの汎神論=草木国土悉皆成仏

「おそらく、存在の謎について考えうるあらゆる解答のなかで最も喜ばしいのは、およそありそうにないことながら、世界が「自己原因カウサ・スイ」である、つまり世界がみずからの存在原因であるという可能性が見出されたことだおろう。この可能性は、スピノザによって初めて提起された。スピノザは大胆にも(いくぶん漠然としていたにもせよ)、あらゆる現実はひとつの限りない実体からなると推論した。個々のものは、物理的なものも精神的なものも、この実体に一時的な変更あg加えられたものにすぎず、海面の波のようなものなのだ。スピノザはこの限りない実体を「神即自然デウス・シウエ・ナトウラ」と呼んだ。」

アインシュタイン1921年にニューヨーク在住のラビから、神を信じるかどうかと尋ねられた。
「私は、存在するものの整然とした調和のなかにみずからを現すスピノザの神を信じます。人間の運命や行動に関心をもつ神は信じません」