夢のリアリズム

高橋英夫『神を見る 神話論集1』

吾々は吾々の生涯で他の時代の千年以上を経験した。喜ぶべき事か悲しむべき事かは知らないが、興味ある事だ。せめてさう思はう。
全く風のない静な夜、二時半、皆寝静まつて、自分だけが覚めてゐる。ねそびれて床に寝ながら覚めてゐる。三月で、虫の音も蛙の声もなく、近い森で夜鳥も啼かぬ季節だ。全く静かだ。そしてその全く静かなのが非常に騒々しいのだ。自分は騒々しさで眠る事が出来ない。水の流れるやうな音が聴える。血の流れる音を聴いてゐるのかとも思つたが、それなら多少とも心臓の鼓動らしい音がありさうなものだ。そして耳をすますも、すまされないもなく、連続した非常に騒々しい音がしてゐる。それが遠巻きに八方から聴えて来る。此警官は病的なものではなく、今晩にかぎつた事でもない。静かな真夜中はいつもこれに悩まされる、読んでゐても、書いてゐても、絶える事なく聴こえて来る。これは誰にもある事と自分では思ふが、如何。
志賀直哉『手帖から』昭和8)

「見る」をも含めて感覚の訓練があるレヴェルまで高まった場合、心身が安定しながら充実の状態に達すると、いつしか感覚の増幅、溢漲がおこることがあるが、その精妙な一例を彼はこの短文の中で報告しているのである。

リアリティの拡張=高度なリアリティ

強度にたかめられたリアリズムの眼がもたらした視覚のデカダンス

あまりにも明晰な視力は夢を生む
ニーチェ風の逆説と心境小説的リアリズムとが、作者の無意識のうちに統一されている
→『焚火』

エピファニー
畏怖


*これ、仏教とくに禅で瞑想している感覚と同じ状態なのではないか。志賀のリアリズムがいわゆる自然主義をこえた、ハイパーリアリズムの作家であったことを知ったのは有益であった。

そして以下も同書から、小林秀雄志賀直哉

推進機の回転数が異常に増加してくれば、おそらく推進機は推進機でも何んでもなくなるが如く、理智の速度が異常に速やかになれば、理智は肉体とは何んの交渉もない観念学と変貌するが如く、神経も亦その鋭敏の余り人間行動から遊離して、一種トロピズムの如く、彼独特の運動を起すものである。神経がその独立の運動によつて彼の世界を建築しようとするに際して、その材料として、その骨格として最も自由な利用を許されるものは、肉体の命令から最も自由な観念といふものである。ジェラル・ド・ネルヴァルが、その恐ろしく鋭敏な神経の上に、「夢と生」なる神経的架空の世界を築き得た所以は、彼が又恐ろしく神速に観念的な頭を持つてゐたが為である。彼の遊離した神経は、利用すべき観念の無限な諸映像に不足を感じなかつた。

私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見てゐる眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかといふ事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はさういう眼なのである。

見ようとしないで見てゐる許りでなく、見ようとすれば無駄なものを見て了ふといふ事を心得てゐる

(『世の若く新しい人々へ』昭和4)

ここにもネルヴァル!

以下、芭蕉『三冊子』の引用

物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし

師の曰、乾坤の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動るものは変也。時としてとめざればとどまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散乱るも、その中にして見とめ聞とめざればをさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。