和歌・俳句の起源/「築地明石町」のモデル

わが国における和歌のはじまりはの素盞鳴尊
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
であるとされるが、実は中国伝来のものなのではあるまいか?
論語 顔淵十二」に、次のようにある。
司馬牛が憂えて曰く、人はみな兄弟あれど、われひとり亡し
いやそればかりか、俳句の起源も中国にある。
「春秋左氏伝巻一 隠公伝」にこうあるではないか。
夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ

これ、福地桜痴の父苟庵と頼山陽とのやりとり。福地の弟子の塚原渋柿園が書き残している。
と、淮陰生が「一月一話 読書こぼればなし」に書いている。
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出久根達郎「百貌百言」
鏑木清方のモデルのはなし。
「なお昭和二年帝展出品の『築地明石町』のモデルは、警視総監の娘で、農商務省に勤めていた鏡花ファンの
江木定男夫人ませ子で、清方夫人の同窓、かつ清方の弟子でもある。」
鏡花ファンは江木氏?それともませ子女史?
重男氏の子の二男一女は、天下の美人ませ子さんの血をひいている訳か。