メモ

花田清輝『近代の超克』より「もしもあのとき」

未来にだけ視線をそそぐことは、過去にだけ視線をそそぐことと同様、至極、非現実的な態度であることはいうまでもない。(略)
現在の偶然をキッカケにして、過去の必然と未来の可能とを統一したものが現実というものだとわたしは考える。


森山大道『犬の記憶』

つまり、僕が、写真家が「いまだ」と思って撮っている現実らしきものが、じつは彼方に溶け込んでしまっているきりのない世界の過去と、遠くからある予兆と懐かさしさをともなって歩いてくる、未来との交差点なのではないだろうか。いいかえれば、記憶とは過去をくりかえし再生するだけのものではなく、かぎりなく打ちつづく「現在(いま)」という分水嶺を境界として記憶が過去を想像し、さまざまな媒体を通過することで再構築され、さらにそれが来るべき未来のうえにも投影されていくという永遠のサイクルのことではないだろうか(略)。


大森荘蔵「序論 存在の意味」
(『岩波講座 宗教と科学3 科学時代の神々』)

普遍が出現する場所は日常生活である。

普遍や集合を考える場合もそれ(夕食や明日のこと、仕事のことなど)と同様に、例えば、「犬の普遍」や「山口組」の集合が私に吹き過ぎる微風のように触れるのである。それは捉え難くはかない束の間の接触であるが、それでも普遍の存在や集合の存在に触れることには違いない。だが上に述べたように言語の語彙のほとんどは普遍である。だから何かの言葉を言い何かの言葉を聞き取るごとに、何かの普遍と束の間の接触が経験される。その接触ははかなく心もとない接触であっても、長い年月の膨大な集積の後には、いくらか形を整えたものに結晶してゆくと考えても不自然ではないだろう。一言でいえば、言語使用の語りの中で普遍の意味と普遍の存在の意味が制作されるのである。この言語的制作をプラトンアリストテレスの言葉を借りてポイエーシスと呼ぶことが許されるだろう。